気恥ずかしい気がしながらの書き出しとなります。物心ついてからの父は大きい存在でした。その記憶をたどることは、自分の心をも振り返る気がいたします。
まず最初に、親父の略歴をお話いたします。大正6年12月30日巳年生まれです。東京保善工業学校(現安田学園高校)建築部卒業後逓信省に勤務するも、更なる向学の心から東京物理学校(現東京理科大学)に入学しましたが、応召により戦地に向かい終戦となりました。その後疎開で故郷のいわき市に帰り、昭和26年の建築士試験に合格、設計事務所の開設となります。
(この時母は、これで自分の親の住んでいる東京に帰れると思ったそうですが実現しませんでした。)
さて、仕事における父は職人でした。綿密に計画し、周到に準備し、よい道具を揃え、一気呵成に図面を仕上げる。さらにまた、現場には毎日飽きもせずに詰めて、職方さんと一緒に作り上げていく。本当に現場の好きな人です。(傍で見ている方が飽きてしまうくらいに)結局、作り上げてゆくプロセスの中に息をしていたのだと思います。ですから、幾つもの仕事を平行してやるということが出来ずお客様をずっと待たせていたようです。また待ってくれました。やはり不器用なのです。そして、その待っていてくれたお客様が今でも事務所の大事なお客様です。
また、仕事の教え方も「仕事は見て盗むもの」と、口では教えず現場を見て来いと現場重点の教え方でした。国宝解体修理報告書などを買い求めては、昔の技術・考案などを調べ、さらに、これらを元に見学し、自分なりの木組み納まりを考えていました。特にバランスにはうるさく、大きいものは小さく・小さいものは大きくと教えられ、今でも利用しております。
さらに、資料の収集にも凝り、特に書籍は、いくらか公的機関へ寄付をいたしましたが、現在当事務所の移動書庫と父の書斎更には私の書斎とに積み上げっております。近頃の父の口癖は「私の先生は、この積もった資料だ」と。
戦地でのことですが、当時技術将校として訓練用プールの建設に関わったことがあります。設計は帝国大学(現東京大学)卒の技師による鉄筋コンクリート造25mプールです。完成し水を張るだけという時、大雨が降ってまいりました。そこで、水圧を心配した父は、プールに水を入れることを進言いたしましたところ、軍上層部が完成式に最初にバルブを開けるから今はだめだと蹴られてしまいました。案の定、次の日プールの底に一条のクラックが長手方向に入ったそうです。当然責任問題が浮上してまいりました。このままでは、帝国大学卒の技師の将来に影響が出る。おまえが責任を取ってくれるかと転属命令が出たそうです。
このごろの、父の変わった趣味を。それは能面を打つことです。どうしてと尋ねると、この作業には日本の伝統的技術が詰まっているとのこと。楽しそうに鑿を持ち事務所の上の部屋で時折コツコツ・ドンドンとやっており、居間には翁面・般若面・ひょっとこ面などが並んでます。
Posted by 飯塚 静栄
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Posted by 木村 壽夫
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